2025年12月7日日曜日

電池電極用溶接器

埃が落ちているようにみえるけど溶接点なのよ

ニッケルタブ用溶接機を買うのは2台目です。1台目は保管している間にバッテリーが干上がってしまい、必要に迫られて2代目を買いました。

今度のはポータブルオシロなどでもなじみのあるFNIRSIの製品です。

FNIRSI SWM-10 スポット溶接機

使い方は動画で何となくあたりをつけつつ、とりあえず初期設定のままで使って見ました。

  1. 予め溶接機をフル充電。USB TypeC充電器につなぐと緑の点滅、フル充電で常時点灯になります。
  2. テストに使う電池を万力に固定。今回使用済アルカリ乾電池を使いましたが、生きている電池は締めすぎるとよくないので治具などを使った方が良いと思います。
  3. 付属のニッケル板を電池にしっかり固定。
  4. 溶接機に溶接棒をセットする。差し込み口がかなり固いので、なにか間違えたのかと思いましたが、垂直に立てると刺さります。
  5. 電源スイッチ長押しで溶接機の電源ON
  6. 片手で電極棒の片側をしっかりニッケル板を押さえつつ電池まで押しつけます。
  7. もう片手で電極棒のもう1本でニッケル板ごしに電池までグイイイ、と押します。
  8. 1秒ほどで火花が散って溶接されます。
電極棒同士を短絡させないよう(短絡検知はついてますが)、ニッケル板だけでなくしっかり電池まで押しつけるのがコツかもしれません。

日本語マニュアルはPDFで送ってくれるようですが、とりあえずデフォルトそのままで十分溶接できました。初期設定のままですが、かなりチカラを入れても剥がれない程度にしっかり溶接できていると思います。

エネループを束ねてバッテリーパックを作る、という程度の作業であれば、十分対応できるんじゃないでしょうか。

先日、15AhのLiFePO4電池を買って評価していますが、1台目の溶接機が使えなかったので電極は丸めた金属板を押しつけただけでした。これでしっかり電極を溶接して、溶接した電極に配線をハンダづけ、という状態での評価ができます。


余談ですが、アリエクで買った15Ah表記のLiFePO4電池はしっかり15Ahの容量がありました。最初の放電→充電は挙動不審でしたが2回目からは表記通りの容量です。0.1Cでの充放電ですが、放電では最後まで発熱せず充電でも容量の90%ぐらいまではほぼ発熱なかったので、かなり良いですね。三元Li-Ion電池よりも安全ですし、もっと普及してくれると良いなぁと思います。取り寄せるのも大変ですので。



2025年12月3日水曜日

電池ボックスの製作(LiFePO4用)


アリエクプレスから32140サイズの大きなLiFePO4バッテリーが届きました。容量15Ah、重さは300g近いです。10Ahのリポ電池が200g弱なので、電流容量あたりの重量はそんなに遜色ないですね(表記が正しければ)。なおLiFePO4の方が電圧が低いので、電流容量が同じなら電力容量は15%ほど少ない計算になります。

電池ボックス、市販されていないか一応探したんですが、無いですねw

こういう場合に持っていてよかった3Dプリンタ。テストなのでFusion 360で簡単な形のボックスを作り、スリットにニッケルのストリップを通して電極バネとして使う方針です。

デザインに小一時間、お昼休みの間に出力して、電極作りとテスト条件設定が30分。作業時間は90分ほどで簡易電池ボックスのできあがりです。実験用で1回使うだけなので再出力は避けたい。そこでキツくて入らないよりゆるめに作ったら少し緩すぎました。

電池溶接用のニッケル板を使ったんですがバネ効果はあんまり期待できません。ニッケルメッキのリン青銅板って売ってないですかね……。

とりあえずサーモグラフィーで温度を測りながら1A放電で容量を確認中です。

こういう充電放電テストの間に過熱している部分がないか監視するデバイスを作らなきゃと思いつつ何年が過ぎたんでしょう……8x8のサーモパイル程度で良いと思うんですが、自分の物となるとなかなか手が動きません ^ ^

2025年10月24日金曜日

新しいスミチューブ(熱収縮チューブ)


秋月で「スミチューブ」という熱収縮チューブを売ってます。とりあえず不満はないけども、新しく「スミチューブF(Z)」というタイプが入荷したので注文してみました。

パッと見、思っていたよりも厚手で、触った感触はざらざらしています。旧タイプのものは半透明でツルツルでしたがこっちは不透明でざらざらです。

0.3mmと0.5mmの架橋ビニール被覆線を通して、手芸用のヒートガンで加熱してみました。

芯線0.3mmの方は少し長めに熱を加えないとしっかり粘着しない感じですが、0.5mmの方は十分固定されています。

従来のものよりも収縮率が高いかな?と思います。収縮後は厚手ですが収縮率高いわりにカチカチに硬くならないのでモノタロウで売っている高収縮タイプよりも使いやすそうです。まぁモノタロウのは硬さ・厚さを必要とする用途に使う物だと思いますが。

ところで……私、先日、旧タイプの熱収縮チューブを20本ほど買ったばかりなのですが……。

2025年10月9日木曜日

XIAO MG24の消費電流なにこれwww

 delay(500), digitalWriteを繰り返すだけのコード。

DMMの表示がチカチカして読み取れないので、いったんUSBメモリに記録してから平均値を求めたところ

0.00354A = 3.54mA

でした。え? マジで? と二度目してしまうほど低い。

次にsin関数ぶん回し

0.00360A = 3.60mA

でした。え? マジで?? いや、ビックリするほど少ないっすね。計測ミスを疑って直流電源装置の出力をみても0.003-0.004Aをウロウロするだけだし。

これで78MHz ARM Cortex-M33……クロック50uA / MHzぐらい。うそーん。

2025年9月23日火曜日

XIAO RA4M1、Pi Picoの消費電流

外部から3.3Vを3.3V端子に給電。

外にLEDを付けないで、500mSecごとにON/OFFするLチカ実行中……19.1mA
全部LED消してsin関数ぶんまわし……24.0mA

本当はクロック周波数毎の違いを見たかったんだけども、どうも分周比やらのレジスタをいじらないといけないようで、「setClockFrequency一発」みたいに簡単にクロック周波数は変えられないっぽい。

48uA/MHzっていうのは圧倒的低消費電流なので「暇な時には1MHzでこき使ってやるぜうひひひひ」っていう目論見は潰えたのだった。

うーん、人生甘くない。

ついでなのでRaspberry Pi Picoも計ってみました。

LED未点灯しない500mSecごとのLチカ……25.9mA
sin関数ぶん回し……29.9mA

Raspberry Pi Picoは set_sys_clock_khz(<khz>, true); で変更が可能。2番目のパラメーターは成否を返す、とChatGPTさんが言っている。20MHz(20000)を試して見ると、

LED点灯しない500mSecごとのLチカ……7.8mA
sin関数ぶんまわし……11.0mA

おお効いている! ただ、USBまわりの初期化が正常にできていないようで、クロック変更したままだとBOOTSELを押してからUSBをつなぎ直さないと書き込みができなくなります。ちょっと不便だけどまぁしょうがない。

65MHzのLED非点灯……14.5mA
130/4のLED非点灯……9.4mA
130/8のLED非点灯……失敗

1MHz, 2MHz, 6.5MHz, 10MHz, 13MHzなども失敗でした……分周比などがわかればもうちょっと下げられるかもしれませんが、今のところ20MHzが下限です。

周辺回路付きで20MHzで7.8mA、390uA/MHzというのはまぁまぁ良い数字です。MSP430G25の220uA/MHzってのは単体ですしね。

2025年8月16日土曜日

GreenPAK:I2Cでone shotの待ち時間を書き換える

AtomからCounterの書き換えを実験している図

自分へのメモです。

いろいろな超低消費電流タイマーICが市販されていますが……ちょっと用途に即していなくて、「探すより作った方が早い……しかし、超低消費電流は無理」と思っていたのですが……GreenPAKで試して見たら、デバッガー画面に0.5uAぐらいの数値が表示されているではありませんか! これなら専用ICに勝てないまでも電池の自己消費には勝てる!

ということで何度目かの挑戦です。

やりたい動作は、

  • 起動時にはHIGHのままでマイコンに電源を供給する(でないと何もできない)
  • あるビットをHIGHにすると、x秒後に制御ピンをLOWにした後、y秒後にHIGHにする。
  • xとyはI2Cで書き換え可能だけど、電源入れ直すと初期化される
という処理です。

Grid Alignmentが欲しい

TP2が制御入力、TP13が制御出力。

SetとResetタイマーはワンショットで、設定した秒数後にLOWになります。そのあとにもう1個ずつワンショットを入れて、前段のダウンエッジから短いパルスを作ります。

そのあとにLUTを4つも使っているのは教科書に出ているSET優先RSフリップフロップです。ルネサスさんがD-FF x 2で作れるRSフリップフロップってのを公開していて試したんですが、なんか動いてくれず……それでNAND x 4で作りました。

動きました。半日かかりましたけどもね……。

で、次に、I2C制御です。初期設定のままだとGreenPAKさんは0x08がI2Cアドレスとのことで、そこにレジスタアドレスと値を書き込んでやれば、OKです。

レジスタアドレスはどこかのドキュメントに出ているんでしょうか……探しても見つからなかったので、

  • NVM Viewerを開く
  • 目的のCounterを選ぶとそれに関する設定ビットが青で表示される

  • 青の幅の広いところをクリックする

  • 値が表示される。counter dataには7が入っているので、0xA6-0xA5がソレではないだろうかとあたりをつけてcounter dataに65535を入力してApplyボタン

  • 変わったビットが緑色になる。0xA6-0xA5を見るとちゃんと全部1になっているのでこれだ!

……という方法で調べました。

もっと良い方法(=楽な方法)があるんじゃないか?と思って探したんですが見つからず。たぶん、これをTwitter(X)に貼ると「ここ見ると一瞬だぜ」って方法を教えてもらえるんですよね……。

I2Cでの書き換えはごく単純に8bitずつ書き換えます。今回は止まっている時に書き込みますが、動いている時だと順番や状態に気を付けましょう。

    Wire.beginTransmission(GREENPAK_ADDR);
    Wire.write(REG_ADDR);
    Wire.write(value);
    Wire.endTransmission();

これだけですよこれだけ(CV:竹村健一)。

消費電流はDMMでの計測で2-4uAぐらいでした。

以下、うっかりへのメモです。

  • DIP基板のピン番号はデバッガ画面のTPボタンを押して出てくるヤツ。設定画面のPIN xxを信じて「動かねえ」とか言っちゃダメ。以前Lチカやったときはたまたま一致しているピンだったんですかね。
  • 上記TPボタンを押すとVDDもVDDもTP1って表示されるんですけども、実際にはTP1とTP14に電源を供給しないと動いてくれませんでした。設定の問題なのかしら。
  • PORはレベル(HIGH)、よくあるリセット回路みたいなパルスがくるわけではないので気を付ける。

2025年5月27日火曜日

SIM7080Gがネットワークを拾わない

俺たちのChatGPT先生に聞いたところ、アンテナが弱い、接続するモードを強制的に指定してはどうかとのアドバイス。

手持ちで一番立派なアンテナ(主観)に変えてみたけど変わらず。

モード指定……はい、2秒でつながりました。

modem.init() / modem.restart() をキメたあとで、以下の2行を指定します。


modem.sendAT("+CNMP=38");  // Network mode = LTE Cat-M
modem.sendAT("+CMNB=1");   // LTE only (no NB-IoT)


これでOKです。

ああもうChatGPT先生なしでは生きていけない……。

2025年2月8日土曜日

2024年買ってよかったもの、失敗

成功編

Hakko FX-972

昔、道具を複数買うと「おまえ、腕は2本なのに何個買うんだよ」とからかわれたものですが、今うちはんだごて何本あるんだろ。ステーション2つにコテ8本ぐらい? 流行りのUSBタイプはないですが電池のやつとガスで使えるやつなら持ってます。

そしてそこに新たなステーション。Hakkoの新型です。

今までHakko FX-100が主力で特に困っていなかったのですが、「溝付きコテ先」を使いたくて購入しました。使ってみると、想像以上に強力で、ベタGNDにブロックターミナルを取り付けるような場合でも温度300℃設定で特に待たされる感じもなくハンダ付けできます! 今、電力系の基板が多いので、高熱量タイプのコテも追加しようと思っていたのですが……一般タイプのコテで十分実用になります。

FX-100で同じところをハンダ付けする場合は350℃に2.6D〜5Dコテ先を使っても全体に熱が回るまで数秒かかったのですが……。

あと電源をいれて10秒程度で使えるのが良いですね。スリープまでの秒数も簡単に設定できますし。FX-100は温度を変更できないのですが、972は温度設定が自由自在なので、温度を抑えて仕事ができます。300℃だと排煙ファンを回さなくても喉が痛くならないですw

FX-100はサブとして、972とは別のコテ先をセットしてます。2本のコテ先を同時に使えるのは想像以上に効率が良いですね。

それにしても机の上が完全に青黄です ^ ^

FX-100/972の裏に888Dがありますw

オートワイヤーストリッパーPAW-41

そうだろうな、と思ったのですが、電工用によくある「上下に切れ目を入れて引きちぎる」方式でした。引きちぎるので丈夫な顎で咥えなければならず、配線に跡がつきます。また被覆の切断面はギザギザになりますし、単芯も使えません。

AWG24のより線で試してみたところ、被覆に顎で咥えた跡はつきますが、芯線に特に傷もつかずきれいに指定した長さで剥けました。

撚り線を一定の長さでスパスパ剥きたい!という用途には良いと思います。

こないだ300本ぐらいソレをやりました……その時にこれがあれば(遠い目


AWG24を5mmで剥いたところ

上の導線をさらに別のストリッパーで剥いた図。特に傷などなく


はんだペーストディスペンサ 精密ノズルセット:DPM-B-TND-SET

JLCPCBさんのPCB Aがお手軽で安いのですっかり御家庭リフローはやめてしまいまして。リフロー炉も処分しました。スキージングは本当に後始末が大変、というのがまぁ最大の理由です。

スキージングしないときは注射器でペーストを塗布するんですが、結構疲れるんですよね。太いシリンジで細い注射針から粘度の高い液体をひり出すわけですから、パスカルの原理結構な力が要りますし、力を入れると震えてなかなか大変です。

で、今回ふとした衝動で、数年前からブックマークしていたこのディスペンサーを買ってみました。買ってしまいました。中華製が5個ぐらい買えます。


買って良かったです。本当に軽い力で押しただけペーストが出てきますし、力を抜くとスッと切れます。シリンジの先端には専用のノズルを使います。

注射針だとパッドよりも粘着性が強くて、パッドに貼り付かず注射針についたまま剥がれてしまうこともしばし。

でも、これは、そういうこと一切ありません。スッと切れます。


……少し手が震えていますが。

PCB AはMouserなどから部品を取り寄せると恐ろしく高くなるので、今後はそういうのはPCB Aでは実装せず、自宅で一個ずつ乗せるのもありだなーと思ったりしてます。

その昔、はじめて自宅リフローをしたとき、ペーストは綿棒で塗りました。次に針、精密ドライバーのマイナス、そしてサンハヤトの注射針入りペーストにたどり着いたものです。今回、クリームハンダとして、サンハヤト製品を使いました。3ccのシリンジなので、ディスペンサー付属のアダプターを付ければジャストフィット。細いピストンを青筋立てて押す必要もなくすいすいです。

道具に鐘を使うのは良いことだなぁ(15,700円)。

まぁ消耗品のノズルがちょっとお高いのは辛いですわね(1個240円)。


失敗編

Vixion01

まぁ……試してから買えって話ですね。視野の中心付近は悪くないのですが、目の間隔が変わらないので、老眼用途、手元とそれより遠くを見る用途には使えません……レンズのわっかが視界に入ってきます。レンズのわっかが小さいからある程度は乱視にも対応できるっていう話だったんですが、そこまでは小さくないので乱視には効きません。

乱視のない人で1-2mぐらいからそれより先を見る、という用途には良いと思います。

つまり私にはゴミです。まぁ未来に投資したと思って……泣きます。

モビルアームステーション

スジボリ堂さんの商品は信頼しております。リーズナブルな価格で間違いなく高品質・有用で。特にタングステンの刃は、基板レタッチで圧倒的な威力を発揮しています。

でも、これは失敗でした。AliExpressで買った粗悪品(磁石が弱くて作業中に基盤から剥がれる、など)とほぼ同じ物ですね……。

ブランドに対する信頼がちょっと下がりました。残念です。

2025年1月22日水曜日

手荒れ関連:2024-2024シーズン

今シーズン、今のところ手荒れをコントロールできてます。

まぁ2月がピークなので油断大敵なのですが。

毎日のケア:

  • 加湿器
  • 亜鉛サプリとB2とB6
  • せっけんで手を洗ったらよく濯いでからヒアルロン酸化粧水
  • 皿洗い、洗濯はすべてニトリル手袋
  • 溶剤は化学防護手袋
  • うっかりレジンや溶剤などに触れたらお湯と石けんで10回手洗いしてからケラチナミン

ちょっとガサガサしてきた:

  • 尿素入りケラチナミン、ベトベトしなくなったら化粧水

赤い!痛い!

  • リンデロン軟膏を塗って赤みが引いたら化粧水

こんな感じ。尿素入りケラチナミンは角質柔らかくして水を引っ張り出すけど、皮膚が弱る気がします。なので、角質があれてきたらリセットするような感じで使って、その後しっかり保湿します。

化粧水はおなじみ無印良品のエージングケア化粧水。とにかくヒアルロン酸の多い奴。

2024年11月24日日曜日

母の末期癌から葬儀まで

診断〜病院での選択

母が末期の大腸癌で亡くなりました。

時折便通の不良を訴えていたのですが(かかりつけ医師からは漢方薬が処方されていて私も「きくらげ効くよ」なんてのんきなことを言ってました)、癌(CEA>30)と診断されたのは8月の中旬、末期の大腸癌で子宮への浸潤と複数の転移があると診断されたのは8月の末でした。

その時、すでに母は死をしっかり受け止めていたようで宣告された日の病院からの帰り道「不思議だけど、死ぬのは怖くないんだよ」「まぁ85歳まで生きたからね」「でも痛かったり苦しいのだけはイヤだ」と言っていました。

病院の駐車場から。

病状も本人の意思も緩和ケア一択、となります。

その後、病院側からの指示で帰宅しましたが(本人は不安と痛みが強く入院したかった)、やはり痛みが酷いということで病院に戻りました。数日で少し状態が良くなったので急性期病院から転院する必要があり、ケースワーカーさんから3つのホスピスと、緩和ケア付き老人ホーム(訪問医療・介護付き老人ホーム)への転院を紹介されました。

その時点では自宅での一人暮らしは無理だけどホスピスに移るほど悪い状態ではなかったため上記の緩和ケア付き老人ホームへの転院を選択しました。

ただ、老人ホームに入ったとしても万が一の選択としてホスピスとの家族面談しておき、ホスピスとはどういう場所か、入院して母が急変した場合にどういう処置が受けられるか、居室の種類毎の費用はどうなるか、などについて説明を受けるよう勧められました。

緩和ケア付き老人ホームとして紹介されたうちの一つが医心館で、紹介された翌日に西荻窪と西永福を視察しました。どちらも今年できたばかりの新しい建物で、線路がやや近く部屋の向きによっては電車の音が聞こえる西荻窪ではなく閑静な住宅街にある西永福を選択しました(後日、その周辺の道が細く曲がりくねっていて運転がやや困難で……少し後悔しました)。

また、ホスピスについても3つの病院で家族面談が受けられるよう予約しました。

当初外科にて余命1年以内と宣告されていましたが、転移も多いため残された時間は長くないと思い、全力で居場所の確保に努めました。

転院

医心館さんならどちらでも、私の都合の良い方で良い、と母が言ってくれたので、医心館西永福への転院を決めて、医心館側と仮契約し病院との間で転院の調整を行ってもらいました。

転院には介護タクシーが必要だったのですが、その手配などはすべて病院のケースワーカーさんが行ってくれました。病院のケースワーカー様は本当に親身になって対応してくださいました。感謝いたします。転院には1週間程度時間が必要と伺っていたのですが、こちらの都合で9月末までの5日間ほどで対応していただきました。重ね重ねありがとうございました。

病院からホスピスまでは介護タクシーで40分ほどでした。私はカーシェアで別ルートで追いかけますが、私の到着時はすでに介護タクシーから医心館の担当スタッフに引き継がれているところでした。

このとき、「母がクルマで外を移動するのもこれが最後なのかなぁ」と思ったのを覚えています。幸いなことにこれは的中しませんでした。

居室は大きな窓とタンスとテレビと電動ベッドと洗面台の付いた3-4畳ほどの部屋で、どの部屋も隣りにトイレがあります。2月にできたばかりということでピカピカで、老人ホームによくある消毒臭と糞便臭がまったくなく、快適でした。部屋にポータブルトイレが必要ということで購入しましたが(約6万円)、後日介護保険により9割が補填されました。また、部屋に置く車椅子も必要で、こちらはレンタルしました。レンタル料は介護保険でカバーされました。

介護士さんによる母の着替えなどが行われている間に、私は

  • 医心館(老人ホーム)
  • 介護(医心館併設の訪問介護)
  • 医療(訪問医療のクリニック)
  • 薬局(訪問医療からの要望で薬剤等を手配する薬局)

との契約書類・同意書類・DNR書類などにサインを進めます。あまりにもたくさん住所氏名を書いたので最後の方は入院者欄に自分の名前を書いたりする有様でしたが、何とか完了します。

翌日以降、準備の間に合わなかった着替えなどを慌てて用意しますが、特に不足することもなく数日を過ごした後での母の感想は

  • 介護スタッフの方々がすごくよくしてくれる
  • 何よりも、小まめに温かいお茶を出してくれるのがありがたい

そこかー、そこが評価点かー、と思いつつ笑っていました。>お茶

西永福は閑静な住宅街と言いましたが、実際は「閑静な高級住宅街」でもありました。毎回フェラーリやポルシェとすれ違うので、かなり気を遣いました。あとここに限らないですが、ここ1-2年ほどで歩行者・自転車の飛び出しも酷くなりましたね。

入所から好転

入所が決まってから、すぐにケアマネージャさんから連絡があり、自宅にあるレンタル品の返却スケジュールが決まります。お忙しい中、費用負担をできるだけ少なくしたい、と動いてくださったケアマネさんに感謝します。

本当に今回の母の最期の日々については、皆様のご配慮・ご協力に感謝の言葉しかありません。

というわけで「母にとっては死に場所」に移動したわけで、入所した当初は見舞いに行くといつもぐったりしあまり会話もできない状態でした。話をしているうちに意識がはっきりしてきて、以前の母の知的レベルを維持しながら会話ができました。ただ、経口での摂取はお茶のみ、栄養点滴は2本で、電解質の管理が細かく行われていました。会うたびに痩せていく状態でした。

しかし。

その後、本人の希望で点滴を1本にし、本人の意思で下剤のコントロールもできるようになって(腸の細くなっている部分を通れる程度に柔らかく、かつ酷い下痢にならない程度の量)、流動食ですが食事も再開しました。この頃から急速に好転し、面会に行くと本を読んでいるか起きてテレビを見ていたりするなど、以前より意識がはっきりしていることが多くなりました。

週に1-2回程度お見舞いに行ってましたが、行く度に「仕事は大丈夫なの?」と心配をしてくれて、帰り際には「そんなに(頻繁に)来なくていいよー」というのがお約束でした。

私も見舞いに行く前、母のためにスーパーに寄って買い物をするのが少し楽しくなってきたのもこの時期です。人のために何かをする、何かをすると喜んでもらえる、というのはかなり根源的な幸せなのかなぁと思います。

そのうち、外出も可能となり、2時間ほどの帰宅許可が出ました。介護タクシーを手配してもらい、帰宅し、少しですが片付けができました。自宅への滞在時間は1時間ぐらいだったでしょうか。

その後も快調で、自身の兄弟と座ったまま1時間+会話して、翌日も特に疲れた様子もなく過ごしていました。

「もう一度帰って、片付けを進めたい」
「あさのあつこさんの本を読み終わるまで死ねない」
「メンチカツ食べたい」←食べた

など前向きな言葉も出ていました。カンクロでしたっけ、パズルもさくさく解いていて、私より知的レベルが高いと思う日々でした。

腸閉塞へ

しかし、その数日後、3連休の最終日の夜、痛みを訴えました。すぐに妻と病院に向かいますが、いつもの担当医と違う当直医は「胃腸炎だと思う」という診断で、なーんだ、と笑いながら家に帰りました。

しかし、翌日の担当医師の単純レントゲンによる診断は高度な腸閉塞でした。オトクレオチド(腸の蠕動をコントロールする薬。高価な薬なので事前に許可を求められました)の使用などもお願いし、痛みにはヒドロモルフィン系のナルベインが当初から用いられ、当初はPCAボタン(患者が痛みを感じたら一定量ポンプから投与される)での投与が行われました(自分で押せなくなってからは定量投与)。

ただ、発症が休日の夕方で病状の悪化が急速だったせいかオトクレオチド開始や麻薬を増量する判断が後手にまわってしまい「痛くないようにしてくれるって言ってたのにねー」というのが、母が唯一もらした不満でした。この点については私も強くクリニックに抗議して、「担当医に休むなと言っているのではなく、当直医だから判断が遅れる、医師が捕まらないから判断が遅れる、というのは終末ケアとして正しいとは思えない」と伝えました。

「わかさクリニック」様には、今後は担当医・当直医という切り分けではなく、「チーム医療」として緩和ケアに当たっていただければと願います。

ここ2ヶ月は私の生涯でもっとも腸閉塞について勉強した日々でした。

  • オトクレオチドは2011年頃までは緩和ケア学会の指標でも強く推奨されていたが、その後、オトクレオチド単体では有効性が低く、同時に投与するステロイドとH2ブロッカーが有効だという論文が多い(対照群ではその通りの結果が出ている)
  • しかし臨床医からはオトクレオチドの有効性が数多く報告されている
  • 腸閉塞の痛みについてはモルヒネ系よりもフェンタニールの方が有効?

などの論文を素人ながらに読みまくりましたが……所詮素人は素人です。

これは、知人がそのお父上のためにアガリクスを探し届けたのと同じことだと思っています。何もできないけど、何かをしないではいられない。

オトクレオチド投与の翌日から少しですが排便も再開し、麻薬を増量していったおかげか、発症から数日は「ひどく痛かったけども、昨日よりも楽になったよ」と毎日言ってくれる状態でした。「こんなになっても良くなるなんてことがあるんだねー」と喜んでいた母の安心した笑顔を思い出します。

これは癌の診断がついた当初、外科医から「閉塞が始まったら対処する方法はない(ので人工肛門を勧める)」という話があったことも関係していると思います。そのせいで、母は何よりも腸閉塞を恐れるようになっていたのです。

ちなみに告知直後に人工肛門を勧められて手術の覚悟を決めて病院へ行き、再度外科医と面談した際には「もう手の施しようがない」と告知されました。母はこれで大きく落胆していました。「覚悟決めたのに」と。 

これが転院当初の「潰れたカエルのような状態」につながります。

そのため、発症後に排便が再開できたことは母にとっては「大きな希望」だったのだと思います。

その後、内科の先生から、「人工肛門を作っても他に転移した箇所から腸閉塞が起きるかもしれないので、そのリスクを考えると人工肛門は良い解決とはいかない可能性もある。むしろ人工肛門でQOLが低下して、不利な要素だけが残る可能性がある、しかしどちらが良いかはまったく予測できない」という説明があり、母は人工肛門を選択肢から外しました。結果として腸閉塞は原発巣ではない場所で発生したとのことで、選択は間違っていなかったと思います。

また、私が素人ながらいろいろ調べてみたところでは、転移した腸管での腸閉塞の確率は比較的低く、原発巣以外で腸閉塞を起こす可能性はほとんどなく、多くの場合、転移癌、特に肺がんで亡くなるとのことだったので、そういう最期を予測していました。

またオトクレオチドに関する論文の中で、腸閉塞から亡くなるまで5-15日ほどだということも把握していました。

土曜日に話が聞き取れれば良いと思い妻にも来てもらったのですが、痛みが強いようであまり話もできませんでした。意識ははっきりしていて、痛みについて「痛くないようにしてくれるって言ったのにねー」と不満を漏らしていたのを覚えています。帰宅してから訪問クリニックにクレームを入れました。

日曜日は休息を取るつもりでしたが早朝カーシェアが空いていたので顔を出しました。どういう状態だったのか記憶がありません。夕方看護師さんに電話すると麻薬が増量されて眠れているとのことでした。あとから思えば、この日、もっと長い時間を一緒に過ごすべきでした。でも意識もはっきりしていて、お別れまであと何日かな……と思っていました。

そして最期の日

月曜日の早朝、担当看護師からの電話で「ほとんど意識のない状態」と告げられ、数日間の着替えをつっこんだカバンをかかえて電車で医心館に向かいました。家を出て吉祥寺近くまで移動したところで補聴器を忘れたことに気づき、家に引き返したことも今となっては思い出です。

死まであと数日だろうと思っていました。しかし、到着するとすでに死戦期呼吸になっており、結局そのまま意識は戻りませんでした。

看護師さんによると日曜日の夕方から急に痛みが酷くなり、麻薬の増量で意識も低下したそうです。私が電話したのはこのタイミングだったと思います。意識が戻ったとき看護師さんが「息子さん呼びますか?」と尋ねても、「悪いからいいよー」と断ったとのことです。

母の意思を無視して呼んでくれれば最期の言葉を交わせたかもしれませんが、こうなる前にすでに別れの言葉と感謝は伝えていたので、悔いはありません。母はその後も看護師さん介護士さんに「ごめんねー」「悪いねー」と看護師さんに言いながら、次第に意識が戻らなくなっていったそうです。

到着から2時間ほど、話しかけてみたり、母が好きだった布施明さんの歌などを私が歌ってみましたが反応はありません。

お昼前に医師が到着して座薬などを追加しますが、これは母の苦しみというよりも私の悲しみを和らげるための処置だったと思います。

やがて、呼吸が途切れるようになりました。ふと思いついて、iPhoneで布施明さんの1972年版の「マイウェイ」を購入して母の耳元で聞かせてあげたところ、一粒だけ涙をこぼして、そのまま呼吸が停止しました。

音痴の自覚はありますが、息子の下手な歌ではだめでしたね……選曲が間違っていなかったことと、母の心に届いたことを祈ります。

看護師さんがそっと部屋に入ってきて、医師が再度こちらに向かっていることを知らせてくれた後で聴診器で呼吸と心拍の停止を確認しました。医師から「遅くなってすみません」と言われましたが、「生きている方を優先してください、母もそう言いますから」とお伝えし、ゆっくり居室で過ごしました。

誤飲防止で入れ歯を外していたため、母はげっそりしていましたが、介護士さんが入れ歯を入れてくださったら、いつものふっくらとした母に戻り、とても満ち足りた眠っているような表情になりました。

父が亡くなったときにお世話になった葬儀屋さんの名前が思い出せず、お寺さんから連絡を入れていただき、葬儀屋さんから折り返しの連絡をもらうようお願いしました。ほどなく葬儀屋さんから連絡があり、死亡宣告後に母の遺体を引き取ってくださるよう手配しました。

その後は、介護士さん、看護師さんが、何人も何人も母にお別れにきてくださいました。ありがとうございました。

やがて医師による死亡確認が行われ、母の死が確定しました。呼吸停止から約2時間後でした。

指示通り葬儀屋さんに連絡して搬送を手配します。その間、母の着替えや最期のケアが行われます。

葬儀屋さんの搬送車が到着し、何十人もの看護師さん・介護士さんが玄関外までお見送りしてくださいました。ありがとうございました。

帰路、葬儀屋さんにお願いして母が若い頃に勤めていた伊勢丹だったビルの前を通ってもらいました。葬儀屋さんに到着、安置され、焼香します。

それから、葬儀屋さんで葬儀の打ち合わせをします。最近は火葬場だけで式が完結することも多いですが、「葬式なんてもったいない」と言っていた母の意向と、生前花が好きだった母のために、そして私の少しの見栄もあって、お通夜はなし、当日は葬儀の後、火葬に行き、親戚のみで会食をする、ということになりました。

その頃、妻も帰宅したので、一緒におわかれをしてから葬儀屋さんを後にします。最近は一晩付き添ったりしないんですね。

結局、母は、あさのあつこさんの「弥勒シリーズ」は全部読めたものの「おいち」は1巻の途中まででした。残った本は、私が読み終えた後でお焚き上げしてあげようと思います(弟の火葬の際には本などは入れてあげられなかったので、母のために母が普段使っていたバッグ、杖、靴などの写真に撮ってプリントアウトを棺に入れてあげたのですが、東京の最新の火葬場では「できるだけ入れてあげてください」というスタンスでした。事前に確認すれば良かったですね)。

選挙が近いので投票券とコロナのワクチン接種の予診票も入れてあげました。母はそういう点でも良い市民でした。そういえば、発作を起こした後に「アメリカの大統領選挙どうなった?」「トランプだよ」「ええー!?」という会話もありましたっけ。

こんな何気ない会話もいつしか忘れてしまうのでしょうか。

それにしても、もうちょっと自分の健康にも気を遣ってくれれば、診断されていきなり末期癌、ということはなかったでしょうに……。毎年健康診断も受けていても、かかりつけ医や膝手術の後にも大腸癌が見落とされてしまったのは、膝が悪かったために検便をパスしていたのが大きな要因だったと思います。

そのせいか、一度、「何度も入院して検査してたのに、わからなかったのかねー」とは言ってましたが、かかりつけの医師などを責めるような空気はありませんでした。この辺も母と私の違うところです……私なら100回ぐらい文句言っていたと思います。

施設の担当医師にも言われましたが、私の家系は大腸癌が多いので、私はきちんと大腸内視鏡検査を受けようと思います。

私自身の仕事のスケジュールも遅延を余儀なくされました。スケジュールの遅延をご報告・お願いした上で、ご希望されるなら全額返金でのキャンセルを、とお尋ねしたのですが、皆様から遅延を受け入れていただきました。心より感謝申し上げます。

葬儀の手配など

翌日、葬儀屋さんに寄って母に挨拶をしてから、お寺に伺い、住職と日程、式、戒名、費用などについて打ち合わせをしました。母が照れつつ喜んでくれそうな戒名が決まりました。

この時点で葬儀の2日前でした。

さて、親戚その他への連絡ですが、ほとんどがemailを使わない世代なので、電話で連絡することにしました。母の兄弟については、他の兄弟に知らせてもらうようにして、その他には私が電話し、住んでいた団地にはご挨拶をして案内状をお渡ししました。それでも連絡のとれない親族に関しては、郵便のWebメールの速達を送ってみましたが、区画整理などの都合で住所が変わり届かない方もいらっしゃいました。普段から連絡先を確認しておくことは大切ですね。

遺体は前日の午後、お寺に搬送されました。私がうっかり予定を聞き逃してしまい、顔を見たいという親族をお寺に案内したタイミングで読経のためにお坊さんがいらっしゃったので、小規模ですが仮のお通夜を執り行うことができました。母が絶対「もったいない」と言うであろう規模の祭壇を組んでいただき、花が好きだった母に「きれいねー」と言ってもらえる式ができるかなと思いました。

納棺された母は、自分で縫った服を着て、ほんとうに満ち足りた顔をしていました。

葬儀

当日、葬儀開始時刻の一時間ほど前に葬儀会場のお寺に行きました。

薄曇りの、暑くもなく寒くもない日でした。夏と冬しかない昨今、珍しい秋の日でした。

医心館の見学やホスピスの家族面談で、半分脱水症状になりながら歩き回った日々を思い出します。まだ3ヶ月経っていないんですよね……本当にあっという間でした。

お忙しい中、お運びくださった皆様には感謝致します。

そして、祖母も父もお世話になった火葬場へ。最近の火葬は1時間かからないのですね。遺灰の中には人工膝関節と人工股関節があり、少し樹脂の焼ける匂いがしていました。これらは固い金属製で骨壺を割る可能性があるとのことで、骨壺には入れず火葬場で供養していただくことにしました。人工関節にはチタン等が使われているので、リサイクルされて何かの役に立った方が母も喜ぶと思います。

戻って、地元の隠れた名店「魚はま」で会食し、解散となりました。「魚はま」さんは本気出すとすごいんです ^ ^

重い骨壺でヨタヨタする私に、「魚はま」さんが「送りましょうか?」とお声をかけてくださったのですが、約1km先の家まで歩くことにしました。遺骨はずっしり重くて少し後悔しましたが、最後の道を母と妻と歩けて良かったと思っています。

この後は49日と納骨が控えていますが、49日は年末にあたってしまうため、年明けにしました。弟の時は慌ただしくて、位牌の準備がギリギリだったので、今回は少し余裕を持ちました。ただ、私は夏休みの最終日に宿題に着手するタイプなので、ToDoリストで早いうちから自分を追い詰めたいと思います。

この後

まだ母の居室の片付けが残っています。

電動ベッドのあった母の寝室と台所は専門業者の手ですっかり片付けてもらいました(処分費用約7万円)。

あとは居間、風呂場、トイレなどの片付けが残っています。手芸の講師の資格も持つ母のことなので、作品もたくさん残っているでしょうし、まだ回収できていない写真も多いでしょう。団地は一ヶ月ぐらいで退去しなければいけないので、大変です。

転院したころに「年内ぐらいには片付けたいね」と言っていた母の言葉が的中してしまいました。

最初の外科医の「余命1年ぐらい」という言葉が的中して欲しかったです。せめてもう一度ぐらい外食や一時帰宅を叶えてあげたかったと思います。

いろいろな解約の手続きもあり、ToDoリストを作って片っ端から片付けているのですが、リストがなかなか短くなりません。マイナンバーカードがあっても年金の停止届などが必要なんですね……がんばれマイナカード。

居室の片付けなど

享年85歳。85年の人生の後始末を委ねられることは光栄ですが、ちょっと大変です。

みなさん、親の荷物は生前にできるだけ片付けて置きましょうね。

できればご両親が揃っているうちに。

私自身は、minikura(段ボールにつめた荷物を預かってくれるサービス)を活用しています。よく片付けは「迷ったら捨てる」と言いますが、なかなか割り切れません。

私みたいな物に執着するタイプにとって「物を捨てる」のは「思い出を捨てる」こととイコールなので、大量の荷物を捨てようとするのはものすごくストレスなのです。

そこで私は「迷ったら預ける」にしています。minikuraは1年たつと配送料が無料になるので、そのタイミングで家に送ってもらいます。週に1つか2つなら精神的負荷があまり増大しないで冷静に処分の判断をすることができます。

わりと。

もし身内の方が物を捨てたがらないタイプの場合には、「いつか使うかもしれないもの」などについてはレンタルなどの代替案を勧める、「まだ使えるもったいないもの・死蔵しているもの(未使用のディスケットやノートなど)」についてはそういう品物の寄贈を受け付けてくれるNPOなどに贈る、アルバムなどは業者によるスキャンを提案する……などしてできるだけ「物」を減らした上で、思い出のノートや仕事の資料など捨てにくいものについては、minikuraなどに預ける、という提案をしてはいかがでしょう。

……このあたりすごく自分に刺さるのですが。

まとめ

以上、母の最期に関するまとめです。

亡くなって2週間、これを書きながら、まだ涙がボロボロこぼれてきます。62歳のおっさんがみっともない限りですが、心療内科の先生が「一杯、泣いてください」とおっしゃってくださったことは救いでした。

友の共感は救いでした。

介護士さんや看護師さんが「良い人でした」と言ってくれたことは救いでした。

数年前に母が「今の暮らしが人生で一番良い」と言ってくれたことは救いでした。

みっともなく泣いている息子を、あの世で「しょうがない」と笑ってくれていれば良いなぁと思います。いやそれ以上に「仕事大丈夫なの?」って思っているでしょうね ^ ^

読んで下さってありがとうございました。

付記-年金の死亡届など

年金死亡届に関しては、死亡届そのものはマイナンバーカードで済むものの、同居をしていなくても最後の日々に介護に関わっていたと第三者が証明できる状態であれば、最後の年金は返金する必要が無い、という制度を使うためでした。これは死亡届を出しに行った時に年金事務所の方が教えてくれたことです。書類に頻繁に見舞いに行ったり差し入れをしていたことを記載し介護施設に押印してもらって、書類を提出するだけで済みます。

年金事務所に書類を提出した際、職員の方が玄関まで見送ってくださいました。外に出るときれいな青空が広がっていました。


付記-居室の片付け

全部の引き出し・押し入れを確認して、段ボール2箱分の生地をNPOさんに送り、地元のボランティア協議会に毛糸を引き取っていただき、12月26日に清掃業者に入ってもらって一切合切を処分していただきました。2回目、これで2トン車で2杯目です。2LDKとはいえ、都営住宅の狭い部屋によくそれだけ荷物があったものだと思います。

このあとエアコンを撤去しました

12月27日の朝から都営住宅の管理事務所へ行き、解約手続きをしました。手続きの際に、移転の日付なども教えていただき、こっちがうっかり涙をこぼすと、それに共感してくださって窓口の方も一緒に悲しんでくださいました。朝一なのにお化粧を汚してしまってごめんなさい。でも、すごく救われました。改めて感謝申し上げます。


管理事務所のビルを出ると抜けるような青空でした。亡くなった日は傘を差さないで済む程度の雨模様だったのを思い出します。

年が明けて、あとは納骨と準確定申告だけになってしまいました。

仏壇がうちに来て、毎朝お線香お水ご飯を供えています。小さな器に炊きたてのご飯を盛って、位牌になってしまった親族やご先祖や肉親、遺骨の母に「はいはい、ご飯ですよー」「あたたかいお茶ですよー(母が転院して一番気に入っていたのが"いつでも温かいお茶が飲めること"だったので)」など声をかけているのはおまま事のようです。「生きているうちにやってやれよ」と自戒しつつ、お飯事のようなあれこれがそういう思いを軽減するのに役立っているのは確かです。

そういえば、老人ホームで少し元気を取り戻していたころ。スーパーでお土産の品を選ぶのは楽しかったです。あれもこれも、と買いすぎてしまうんですよね……食べられないのに。この心理は、「田舎の祖母によるお菓子山盛り現象」と同根なのかもしれないですね。

すべての生者は死を免れることはできません。

「後悔したときに親はなし」も私たちが決して逃れられないこと、なのかもしれません。