2024年11月24日日曜日

母の末期癌から葬儀まで

診断〜病院での選択

母が末期の大腸癌で亡くなりました。

時折便通の不良を訴えていたのですが(かかりつけ医師からは漢方薬が処方されていて私も「きくらげ効くよ」なんてのんきなことを言ってました)、癌(CEA>30)と診断されたのは8月の中旬、末期の大腸癌で子宮への浸潤と複数の転移があると診断されたのは8月の末でした。

その時、すでに母は死をしっかり受け止めていたようで宣告された日の病院からの帰り道「不思議だけど、死ぬのは怖くないんだよ」「まぁ85歳まで生きたからね」「でも痛かったり苦しいのだけはイヤだ」と言っていました。

病状も本人の意思も緩和ケア一択、となります。

その後、病院側からの指示で帰宅しましたが(本人は不安と痛みが強く入院したかった)、やはり痛みが酷いということで病院に戻りました。数日で少し状態が良くなったので急性期病院から転院する必要があり、ケースワーカーさんから3つのホスピスと、緩和ケア付き老人ホーム(訪問医療・介護付き老人ホーム)への転院を紹介されました。

その時点では自宅での一人暮らしは無理だけどホスピスに移るほど悪い状態ではなかったため上記の緩和ケア付き老人ホームへの転院を選択しました。

ただ、老人ホームに入ったとしても万が一の選択としてホスピスとの家族面談しておき、ホスピスとはどういう場所か、入院して母が急変した場合にどういう処置が受けられるか、居室の種類毎の費用はどうなるか、などについて説明を受けるよう勧められました。

緩和ケア付き老人ホームとして紹介されたうちの一つが医心館で、紹介された翌日に西荻窪と西永福を視察しました。どちらも今年できたばかりの新しい建物で、線路がやや近く部屋の向きによっては電車の音が聞こえる西荻窪ではなく閑静な住宅街にある西永福を選択しました(後日、その周辺の道が細く曲がりくねっていて少し後悔)。

また、ホスピスについても3つの病院で家族面談が受けられるよう予約しました。

当初外科にて余命1年以内と宣告されていましたが、転移も多いため残された時間は長くないと思い、全力で居場所の確保に努めました。

転院

医心館さんならどちらでも、私の都合の良い方で良い、と言ってくれたので、医心館西永福への転院を決めて、医心館側と仮契約し病院との間で転院の調整を行ってもらいました。

転院には介護タクシーが必要だったのですが、その手配などはすべて病院のケースワーカーさんが行ってくれました。この病院のケースワーカー様は本当に親身になって対応してくださいました。感謝いたします。転院には1週間程度時間が必要と伺っていたのですが、こちらの都合で9月末までの5日間ほどで対応していただきました。重ね重ねありがとうございました。

病院からホスピスまでは介護タクシーで40分ほどでした。私はカーシェアで別ルートで追いかけますが、私の到着時はすでに介護タクシーから医心館の担当スタッフに引き継がれているところでした。

居室は大きな窓とタンスとテレビと電動ベッドと洗面台の付いた4-5畳ほどの部屋で、どの部屋も隣りにトイレがあります。2月にできたばかりということでピカピカで、老人ホームによくある消毒臭と糞便臭がまったくなく、快適でした。部屋にポータブルトイレが必要ということで購入しました(約6万円)。介護保険により9割が補填されました。また、部屋に置く車椅子も必要で、こちらはレンタルしました。レンタル料は介護保険でカバーされました。

介護士さんによる母の着替えなどが行われている間に、私は

  • 医心館(老人ホーム)
  • 介護(医心館併設の訪問介護)
  • 医療(訪問医療のクリニック)
  • 薬局(訪問医療からの要望で薬剤等を手配する薬局)

との契約書類・同意書類・DNR書類などにサインを進めます。あまりにもたくさん住所氏名を書いたので最後の方は入院者欄に自分の名前を書いたりする有様でしたが、何とか完了します。

翌日以降、準備の間に合わなかった着替えなどを慌てて用意しますが、特に不足することもなく数日を過ごした後での母の感想は

  • 介護スタッフの方々がすごくよくしてくれる
  • 何よりも、小まめに温かいお茶を出してくれるのがありがたい

そこかー、そこが評価点かー、と思いつつ笑っていました。

西永福は閑静な住宅街と言いましたが、実際は「閑静な高級住宅街」でもありました。毎回フェラーリやポルシェとすれ違うので、かなり気を遣いました。あとここに限らないですが、ここ1-2年ほどで歩行者・自転車の飛び出しも酷くなりましたね。

入所から好転

入所が決まってから、すぐにケアマネージャさんから連絡があり、自宅にあるレンタル品の返却スケジュールが決まります。お忙しい中、家族の負担をできるだけ少なくしたい、と動いてくださったケアマネさんに感謝します。

本当に今回の母の最期の日々については、皆様のご配慮・ご協力に感謝の言葉しかありません。

というわけで「母にとっては死に場所」に移動したわけで、入所した当初は見舞いに行くといつもぐったりしあまり会話もできない状態でした。話をしているうちに意識がはっきりしてきて、以前の母の知的レベルを維持しながら会話ができました。ただ、経口での摂取はお茶のみ、栄養点滴は2本で、電解質の管理が細かく行われていました。

その後、本人の希望で点滴を1本にし、本人の意思で下剤のコントロールもできるようになって(腸の細くなっている部分を通れる程度に柔らかく、かつ酷い下痢にならない程度の量)、流動食ですが食事も再開しました。この頃から急速に好転し、面会に行くと本を読んでいるか起きてテレビを見ていたりするなど、以前より意識がはっきりしていることが多くなりました。

週に1回程度お見舞いに行ってましたが、行く度に「仕事は大丈夫なの?」と心配をしてくれて、帰り際には「そんなに(頻繁に)来なくていいよー」というのがお約束でした。

そのうち、外出も可能となり、2時間ほどの帰宅許可が出ました。介護タクシーを手配してもらい、帰宅し、少しですが片付けができました。

その後も快調で、自身の兄弟と座ったまま1時間+会話して、翌日も特に疲れた様子もなく過ごしていました。

「もう一度帰って、片付けを進めたい」
「あさのあつこさんの本を読み終わるまで死ねない」
「メンチカツ食べたい」←食べた

など前向きな言葉も出ていました。カンクロでしたっけ、パズルもさくさく解いていて、私より知的レベルが高いと思う日々でした。

腸閉塞へ

しかし、その数日後、3連休の最終日の夜、痛みを訴えました。すぐに妻と病院に向かいますが、いつもの担当医と違う当直医は「胃腸炎だと思う」という診断で、なーんだ、と笑いながら家に帰りました。

しかし、翌日の担当医師の単純レントゲンによる診断は高度な腸閉塞でした。オトクレオチド(腸の蠕動をコントロールする薬。高価な薬なので事前に許可を求められました)の使用などもお願いし、痛みにはヒドロモルフィン系のナルベインが当初から用いられ、当初はPCAボタン(患者が痛みを感じたら一定量ポンプから投与される)での投与が行われました(自分で押せなくなってからは定量投与)。

ただ、発症が休日の夕方で病状の悪化が急速だったせいかオトクレオチド開始や麻薬を増量する判断が後手にまわってしまい「痛くないようにしてくれるって言ってたのにねー」というのが、母が唯一もらした不満でした。この点については私も強くクリニックに抗議して、「担当医に休むなと言っているのではなく、当直医だから判断が遅れる、医師が捕まらないから判断が遅れる、というのは終末ケアとして正しいとは思えない」と伝えました。

「わかさクリニック」様には、今後は担当医・当直医という切り分けではなく、「チーム医療」として緩和ケアに当たっていただければと願います。

ここ2ヶ月は私の生涯でもっとも腸閉塞について勉強した日々でした。

  • オトクレオチドは2011年頃までは緩和ケア学会の指標でも強く推奨されていたが、その後、オトクレオチド単体では有効性が低く、同時に投与するステロイドとH2ブロッカーが有効だという論文が多い(対照群ではその通りの結果が出ている)
  • しかし臨床医からはオトクレオチドの有効性が数多く報告されている
  • 腸閉塞の痛みについてはモルヒネ系よりもフェンタニールの方が有効?

などの論文を素人ながらに読みまくりましたが……所詮素人は素人です。

これは、知人がそのお父上のためにアガリクスを探し届けたのと同じことだと思っています。何もできないけど、何かをしないではいられない。

オトクレオチド投与の翌日から少しですが排便も再開し、麻薬を増量していったおかげか、発症から数日は「ひどく痛かったけども、昨日よりも楽になったよ」と毎日言ってくれる状態でした。「こんなになっても良くなるなんてことがあるんだねー」と喜んでいた母の安心した笑顔を思い出します。

これは癌の診断がついた当初、外科医から「閉塞が始まったら対処する方法はない(ので人工肛門を勧める)」という話があったことも関係していると思います。そのせいで、母は何よりも腸閉塞を恐れるようになっていたのです。

ちなみに告知直後に人工肛門を勧められて手術の覚悟を決めて病院へ行き、再度外科医と面談した際には「もう手の施しようがない」と告知されました。母はこれで大きく落胆していました。「覚悟決めたのに」と。 

これが転院当初の「潰れたカエルのような状態」につながります。

そのため、発症後に排便が再開できたことは母にとっては「大きな希望」だったのだと思います。

その後、内科の先生から、「人工肛門を作っても他に転移した箇所から腸閉塞が起きるかもしれないので、そのリスクを考えると人工肛門は良い解決とはいかない可能性もある。むしろ人工肛門でQOLが低下して、不利な要素だけが残る可能性がある、しかしどちらが良いかはまったく予測できない」という説明があり、母は人工肛門を選択肢から外しました。結果として腸閉塞は原発巣ではない場所で発生したとのことで、選択は間違っていなかったと思います。

また、私が素人ながらいろいろ調べてみたところでは、転移した腸管での腸閉塞の確率は比較的低く、原発巣以外で腸閉塞を起こす可能性はほとんどなく、多くの場合、転移癌、特に肺がんで亡くなるとのことだったので、そういう最期を予測していました。

そして最期の日

しかし、月曜日の早朝、担当看護師からの電話で「ほとんど意識のない状態」と告げられ、数日間の着替えをつっこんだカバンをかかえて電車で医心館に向かいました。家を出て吉祥寺近くまで移動したところで補聴器を忘れたことに気づき、家に引き返したことも今となっては思い出です。

死まであと数日だろうと思っていました。しかし、到着するとすでに死戦期呼吸になっており、結局そのまま意識は戻りませんでした。

看護師さんによると日曜日に私が施設をあとにした数時間後に急に痛みが酷くなり、麻薬の増量で意識も低下したそうです。看護師さんが「息子さん呼びますか?」と尋ねても、「悪いからいいよ」と断ったとのことです。

母の意思を無視して呼んでくれれば最期の言葉を交わせたかもしれませんが、こうなる前にすでに別れの言葉と感謝は伝えられていたので、悔いはありません。母はその後も「ごめんねー」「悪いねー」と看護師さんに言いながら、次第に意識が戻らなくなっていったそうです。

到着から2時間ほど、母が好きだった布施明さんの歌などを私が歌ってみましたが反応はありません。

お昼前に医師が到着して座薬などを追加しますが、これは母の苦しみというよりも私の悲しみを和らげるための処置だったと思います。

やがて、呼吸が途切れるようになりました。ふと思いついて、iPhoneで布施明さんの1972年版の「マイウェイ」を購入して母の耳元で聞かせてあげたところ、一粒だけ涙をこぼして、そのまま呼吸が停止しました。

音痴の自覚はありますが、息子の下手な歌ではだめでしたね……選曲が間違っていなかったことと、母の心に届いたことを祈ります。

看護師さんがそっと部屋に入ってきて、医師が再度こちらに向かっていることを知らせてくれた後で聴診器で呼吸と心拍の停止を確認しました。

誤飲防止で入れ歯を外していたため、母はげっそりしていましたが、介護士さんが入れ歯を入れてくださったら、いつものふっくらとした母に戻り、とても満ち足りた眠っているような表情になりました。

父が亡くなったときにお世話になった葬儀屋さんの名前が思い出せず、お寺さんから連絡を入れていただき、葬儀屋さんから折り返しの連絡をもらうようお願いしました。ほどなく葬儀屋さんから連絡があり、死亡宣告後に母の遺体を引き取ってくださるよう手配しました。

その後は、介護士さん、看護師さんが、何人も何人も母にお別れにきてくださいました。ありがとうございました。

やがて医師による死亡確認が行われ、母の死が確定しました。呼吸停止から約2時間後でした。

葬儀屋さんに連絡して搬送を手配します。その間、母の着替えや最期のケアが行われます。

葬儀屋さんの搬送車が到着し、何十人もの看護師さん・介護士さんが玄関外までお見送りしてくださいました。ありがとうございました。

帰路、葬儀屋さんにお願いして母が若い頃に勤めていた伊勢丹だったビルの前を通ってもらいました。葬儀屋さんに到着、安置され、焼香します。

それから、葬儀屋さんで葬儀の打ち合わせをします。最近は火葬場だけで式が完結することも多いですが、「葬式なんてもったいない」と言っていた母の意向と、生前花が好きだった母のために、そして私の少しの見栄もあって、お通夜はなし、当日は葬儀の後、火葬に行き、親戚のみで会食をする、ということになりました。

その頃、妻も帰宅したので、一緒におわかれをしてから葬儀屋さんを後にします。最近は一晩付き添ったりしないんですね。

結局、母は、あさのあつこさんの「弥勒シリーズ」は全部読めたものの「おいち」は1巻の途中まででした。残った本は、私が読み終えた後でお焚き上げしてあげようと思います(弟の火葬の際には本などは入れてあげられなかったので、母のために母が普段使っていたバッグ、杖、靴などの写真に撮ってプリントアウトを棺に入れてあげたのですが、東京の最新の火葬場では「できるだけ入れてあげてください」というスタンスでした。事前に確認すれば良かったですね)。

選挙が近いので投票券とコロナのワクチン接種の予診票も入れてあげました。母はそういう点でも良い市民でした。そういえば、発作を起こした後に「アメリカの大統領選挙どうなった?」「トランプだよ」「ええー!?」という会話もありましたっけ。

こんな何気ない会話もいつしか忘れてしまうのでしょうか。

それにしても、もうちょっと自分の健康にも気を遣ってくれれば、診断されていきなり末期癌、ということはなかったでしょうに……。毎年健康診断も受けていても、かかりつけ医や膝手術の後にも大腸癌が見落とされてしまったのは、膝が悪かったために検便をパスしていたのが大きな要因だったと思います。

施設の担当医師にも言われましたが、私の家系は大腸癌が多いので、私はきちんと大腸内視鏡検査を受けようと思います。

私自身の仕事のスケジュールも遅延を余儀なくされました。スケジュールの遅延をご報告・お願いした上で、ご希望されるなら全額返金でのキャンセルを、とお尋ねしたのですが、皆様から遅延を受け入れていただきました。心より感謝申し上げます。

葬儀の手配など

翌日、葬儀屋さんに寄って母に挨拶をしてから、お寺に伺い、住職と日程、式、戒名、費用などについて打ち合わせをしました。母が照れつつ喜んでくれそうな戒名が決まりました。

この時点で葬儀の2日前でした。

さて、親戚その他への連絡ですが、ほとんどがemailを使わない世代なので、電話で連絡することにしました。母の兄弟については、他の兄弟に知らせてもらうようにして、その他には私が電話し、住んでいた団地にはご挨拶をして案内状をお渡ししました。それでも連絡のとれない親族に関しては、郵便のWebメールの速達を送ってみましたが、区画整理などの都合で住所が変わり届かない方もいらっしゃいました。普段から連絡先を確認しておくことは大切ですね。

遺体は前日の午後、お寺に搬送されました。ここで住職がお通夜の読経をしてくださったのですが、私がうっかり予定を聞き逃してしまい、顔を見たいという親族をお寺に案内したタイミングで読経のためにご住職がいらっしゃったので、小規模ですが仮のお通夜を執り行うことができました。母が絶対「もったいない」と言うであろう規模の祭壇を組んでいただき、母に「きれいねー」と言ってもらえる式ができるかなと思いました。

納棺された母は、自分で縫った服を着て、ほんとうに満ち足りた顔をしていました。

葬儀

当日、葬儀開始時刻の一時間ほど前に葬儀会場のお寺に行きました。

薄曇りの、暑くもなく寒くもない日でした。夏と冬しかない昨今、珍しい秋の日でした。

医心館の見学やホスピスの家族面談で、半分脱水症状になりながら歩き回った日々を思い出します。まだ3ヶ月経っていないんですよね……本当にあっという間でした。

お忙しい中、お運びくださった皆様には感謝致します。

そして、祖母も父もお世話になった火葬場へ。最近の火葬は1時間かからないのですね。遺灰の中には人工膝関節と人工股関節があり、少し樹脂の焼ける匂いがしていました。これらは固い金属製で骨壺を割る可能性があるとのことで、骨壺には入れず火葬場で供養していただくことにしました。人工関節にはチタン等が使われているので、リサイクルされて何かの役に立った方が母も喜ぶと思います。

戻って、地元の隠れた名店「魚はま」で会食し、解散となりました。「魚はま」さんは本気出すとすごいんです ^ ^

重い骨壺でヨタヨタする私に、「魚はま」さんが「送りましょうか?」とお声をかけてくださったのですが、約1km先の家まで歩くことにしました。遺骨はずっしり重くて少し後悔しましたが、最後の道を母と妻と歩けて良かったと思っています。

この後は49日と納骨が控えていますが、49日は年末にあたってしまうため、年明けにしました。弟の時は慌ただしくて、位牌の準備がギリギリだったので、今回は少し余裕を持ちました。ただ、私は夏休みの最終日に宿題に着手するタイプなので、ToDoリストで早いうちから自分を追い詰めたいと思います。

この後

まだ母の居室の片付けが残っています。

電動ベッドのあった母の寝室と台所は専門業者の手ですっかり片付けてもらいました(処分費用約7万円)。

あとは居間、風呂場、トイレなどの片付けが残っています。手芸の講師の資格も持つ母のことなので、作品もたくさん残っているでしょうし、まだ回収できていない写真も多いでしょう。団地は一ヶ月ぐらいで退去しなければいけないので、大変です。

転院したころに「年内ぐらいには片付けたいね」と言っていた母の言葉が的中してしまいました。

最初の外科医の「余命1年ぐらい」という言葉が的中して欲しかったです。せめてもう一度ぐらい外食や一時帰宅を叶えてあげたかったと思います。

いろいろな解約の手続きもあり、ToDoリストを作って片っ端から片付けているのですが、リストがなかなか短くなりません。マイナンバーカードがあっても年金の停止届などが必要なんですね……がんばれマイナカード。

居室の片付けなど

享年85歳。85年の人生の後始末を委ねられることは光栄ですが、ちょっと大変です。

みなさん、親の荷物は生前にできるだけ片付けて置きましょうね。

できればご両親が揃っているうちに。

私自身は、minikura(段ボールにつめた荷物を預かってくれるサービス)を活用しています。よく片付けは「迷ったら捨てる」と言いますが、なかなか割り切れません。

私みたいな物に執着するタイプにとって「物を捨てる」のは「思い出を捨てる」こととイコールなので、大量の荷物を捨てようとするのはものすごくストレスなのです。

そこで私は「迷ったら預ける」にしています。minikuraは1年たつと配送料が無料になるので、そのタイミングで家に送ってもらいます。週に1つか2つなら精神的負荷があまり増大しないで冷静に処分の判断をすることができます。

わりと。

もし身内の方が物を捨てたがらないタイプの場合には、「いつか使うかもしれないもの」などについてはレンタルなどの代替案を勧める、「まだ使えるもったいないもの・死蔵しているもの(未使用のディスケットやノートなど)」についてはそういう品物の寄贈を受け付けてくれるNPOなどに贈る、アルバムなどは業者によるスキャンを提案する……などしてできるだけ「物」を減らした上で、思い出のノートや仕事の資料など捨てにくいものについては、minikuraなどに預ける、という提案をしてはいかがでしょう。

……このあたりすごく自分に刺さるのですが。

まとめ

以上、母の最期に関するまとめです。

亡くなって2週間、これを書きながら、まだ涙がボロボロこぼれてきます。62歳のおっさんがみっともない限りですが、心療内科の先生が「一杯、泣いてください」とおっしゃってくださったことは救いでした。

友の共感は救いでした。

介護士さんや看護師さんが「良い人でした」と言ってくれたことは救いでした。

数年前に母が「今の暮らしが人生で一番良い」と言ってくれたことは救いでした。

みっともなく泣いている息子を、あの世で「しょうがない」と笑ってくれていれば良いなぁと思います。いやそれ以上に「仕事大丈夫なの?」って思っているでしょうね ^ ^

読んで下さってありがとうございました。

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